パパが3歳のとき知っておきたかったこと

年収は2-3000万円で全然いいんですよ、お金には執着しないタイプなので。

それでも『プロ』リア充を目指すか?

 SNSの登場によって、昔は見えなかった、遠い友達のリア充生活が自然と目に入るようになった。隣の芝生が青く見えるのは、決して気のせいではない。SNSという気球船にのって空から街じゅうを見渡し、他人の本当に青い芝生を眺めているからだ。そんな話をきのうしたと思う。

 しかし、ここで一つ忘れてはいけないことがある。それは、リア充生活をおくる本人たちも少なからず努力している、ということだ。生まれつきリア充だという人はそう多くはない。ほとんどが後天性のリア充だ。

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 スマホでフェイスブックを開き、他人のリア充生活をこれでもかと見せつけられると、誰もが少しぐらいは羨ましい・妬ましいと思う。それと同時に、自身の中途半端な生活は死んでもアップできないという意地も生まれる。その結果、行動は二極化する。FB上でのリア充争いから清く撤退するか、それとも努力してリア充になりきるか。

 後者をプロリア充と呼ぼう。プロリア充は、行動基準の最上位に「他人が納得するリア充写真を撮れるかどうか」を置く。逆に言えば、リア充写真を撮るためには、どんな犠牲もいとわない覚悟がある。

 一番分かりやすいのが、カラーランと呼ばれるものだ。このイベントはリア充っぽい写真が撮れるという価値以外にその存在意義がまったく説明できない。いい歳した大人がお金を払って変装して密集して走りながら、カラフルな粉をぶっかけ合っているだけなのだから。

  もし仮に参加者からカメラを没収するとどうだろうか?見知らぬもの同士で無造作に粉をかけ合ったところで普通にムカつくだろうから(砂場で知らない子どもから泥だんごを投げつけられると嫌だろう)、きっと辺りは一瞬にして殺伐と化すだろう。つまり、そういうことだ。プロリア充は、自身の体験が本当に充実しているかどうかはどうでもよく、他人が写真越しに自分の暮らしぶりを見て充実しているように思えるかどうかが何よりも大切なのだ。

 世の中の企業もこうした需要を取り込もうと、カラーランだけでなく、バブルランチョコランセンセーションなど、「〜ラン」中心に、いい感じのリア充写真を撮るための機会を積極的に提供するようになった。ここ数年のハローウィンの盛り上がりも関連企業の目論みどおりだろう。いまや努力さえすれば誰もがプロリア充になれる環境が用意されているのだ。

 もちろん、特別なイベントに参加するだけが、プロリア充ではない。プロリア充は、どこに行こうととにかく目の前の光景をそのiPhoneに収めることで頭がいっぱいだ。フレンチのコース料理では、一品ごとに「料理」と「料理+自分」の2枚を撮る。まわらない寿司屋にいけば1貫ごとにシャッターを切り、ネタの新鮮さを犠牲にする。ディズニーシーにある謎の地球儀と写るためには平気で30分は待つし、温泉に入るのにもエステを受けるのにも、わざわざ事前にカメラを持ち込んでその様子を撮影する。ぶっちゃけ撮ってしまえば温泉もエステも消化試合になるので、その後の彼らのテンションは低い。

 カフェなどの比較的 地味な場所であれば、ただコーヒーを写すだけではリア充度が少し弱いので、窓際からのオシャレな風景+分厚くて難しそうな本+iPadの3点を一緒にフレームに収めることで、リア充度を補うというか「合わせて一本」を狙うことができる。念のため、投稿するときには、「たまには一人ゆっくり読書して将来の自分を見つめてみる!」とか、よくわかんないけどポジティブなコメントをつけておくと、合計のリア充度はほぼ確実にプロの基準を超えるだろう。
 芝生が薄い青ならば、それを何重にも積み重ねて、濃い青にすればよいのだ。肝心なのは、その地味な努力ができるかどうかだが。

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 これで君もわかったと思う。リア充も陰で努力をしているのだ。おそらくケンちゃんやリカちゃんもフェイスブックで見るほどにはイベントを楽しんではいない。FB上にアップされたリア充写真の裏には何百枚もの使われなかった写真があるだろうし、その一枚一枚には本人たちの涙ぐましい努力が詰まっているはずだ。

 それで、パパは思うんだけど、ハワイやディズニーランドなどのプロリア充な場所に行って、「良い写真を撮らなきゃ・・・」とプレッシャーを感じつつ遊ぶよりは、花やしきやアソボーノなどの庶民的なところで写真のことは一切忘れて気楽に遊んだほうがよっぽど良くないだろうか?

 まぁここまで言って、それでもなお、君がハワイに行きたいと駄々をこねるなら、パパはもうこう言うしかない。

 

「よそはよそ、うちはうち!」

 

(参考) 『隣の芝生』は本当に青い